現代人の冷たさについて

 マザーテレサが西洋の記者の前で言った。「ここインドには、あなた方の想像を絶する貧困があります。しかし、ここにはあなた方がもっている寂しさはありません」。たしかに、人間の幸福は裕福では満たされない。
 なぜ、現代人は道で人が倒れていても、他の誰かが・・と思ってしまうのだろう。
 しかし、今インドをはじめアジアは急速に経済発展しつつある。それはマザーテレサの言葉から離れていく道なのかも知れない。人間はもっと、裕福になっても幸せでいる方法を考え出すことを今迫られているし、格差のある社会はきっと、人間の心にいろいろな凶暴さ芽生えさせるに違いない。
 アメリカにある高い壁に囲まれた高級住宅街、鍵もかけずに近所が出入り自由の沖縄の島の人たち。
人は自分が幸せになるためには周囲の人もそれなりに幸せである必要があると思う。





仕事の時間

 8時間睡眠をとるなら起きている時間は16時間、仕事は少なくともその半分以上関わる時間。この時間が楽しくなくて、どこで楽しく生きるのであろうか?





性善説と性悪説について

人はもともと善な心を持っているのか、それとも悪の心をもっているのか?という単純な問題が中国の思想の歴史では語られた時期がある。彼らが出した結論は知らないが、言えることは、そんなに1か0の話ではないということだろう。
 時、状況、心理状態、対象によっても変わり、個人の中に、複雑に混在して持っているものだろう。

 なぜ、こんな話題をするのか。自分の子ともへの虐待、いじめ、殺人、自殺、少女少年売春、義理の父による性強要、幼児臓器売買、民間人への自爆テロ。

 これらの最近、急速に当たり前になりつつあることの真の原因と解決策を僕自身が見いだせていないからだ。

 テレビ番組で、ゲストコメンテーターが、「どういう心理でそういう事件を起こすの私にはかわかりませんね〜」というコメントを聞く。
しかし、真に問題を解決するためには、実は、私たちは、人を殺す気持ち、虐待する気持ち、テロを起こす気持ちを自分が十分理解できなければならないのではないだろうか。
 「僕には理解できないですね」しか言えないのなら、そのコメンテーターの席には座らないでほしい。その席にすわるべく人は「僕には、その気持ちがよくわかる。どういう気持ちかと言うと・・・・・だけど、こうやって、行動を起こさないようにしている。だから、こういう施策が効果的だと思う」といったコメンテーターでないと、何の参考にもならない。「僕は普通の人間です、悪人ではありません」というコメンテーターは視聴者への迎合者でしかない。

 僕が、想像するに、凶悪な事件を起こした加害者は、多くの場合、かなり、ゆがんだ苦しみを持ち、それをフェアな方向での解決策を見つけられずに、自分をごまかし、間違った道に向かって、実際に行動を起こしてしまっているのだろうと思う。
 そういう加害者として行動する前に救える社会の仕組みを作れてこそ、知能のある人類と言えるのだろう。

 こうして、僕の書いたこの文章も嫌悪の対象になる。
なんの役にも立たない、うわべだけの、脳天気な文章だからだ。




会社は誰のものか

 経営学を大学でまじめに勉強した私がいうのも変だが、会社は株主のものでも、役員のものでも、利益が目標でもない。
会社は人間が幸せになるために生み出した、役割分担のしくみであり、会社は人類のものである。
 アメリカ経営学の勢いに押されて、目立たなくなってしまったが、ドイツ経営学はそういう視点にたった経営学である。
一度ドイツ経営学に触れてみると少し視点が変わるかもしれないと思う。





新しい発想のために

 新しい発想をしようとする時に、調査から入る人がいる。それは自分の能力に対するうぬぼれであると思う。調査して、様々な専門家が生み出した論理を、自分一人しか支持しない仮説で崩そうというのが不遜(ふそん)である。まずは、自分一人で発想し、仮説を立てる。その後に、調査によって、他人の意見でその構造を崩していくのが謙虚なやり方だと僕は思う。





22世紀

 21世紀と言う言葉は僕には、死んだ父の思い出がある。「お前は21世紀に生きていく人間なんだから」。小学生の時に言われたことを、つい先程のことのように覚えている。それを聞いて僕は未来に希望を感じた。今、僕たちは22世紀の子供たちに、そう言えないでいる。





プロの目

プロとは素人から見て同じにしか見えないものが、明らかに違うものと見える力であると思う。そんなとき、素人がそういうプロの集団の中で自分も議論に参加し、仲間になっているように思っていても、プロから見れば実は、素人であることがよく見えている。
 しかし、プロは、そういう人たちにも自分にない部分でプロである部分を持っていることも知っているから、その人を軽蔑できない。真のプロが謙虚な理由はそこにあるのだろう。







 もう父が死んで何年経つだろう。話し足りなかったことも多いけれど、父は今でも僕の中では生きている。冷たくなったやせ細った体。死ぬ半年前にしたお別れ会。「俺はもうそんなに長くはない、だから今日はお別れ会だ。お母さんをよろしくな」と言って、淡々と死の準備をしながら死んでいった父。
 僕自身も、死というものに対して身近な感覚を持っている。
水木しげるの「カッパの三平」での一こまである。孫とおじいさんが、山に連なる段々畑を見渡しながら「来年は、もう一緒に見ることはないかもしれないが、この畑をよろしくたのむ」と言い、それを自然の摂理と受け入れ聞いている三平の姿に共感を覚えた。モンテーニュのエセーにある「死を恐れるのは、死ぬまでの10分程度の苦痛に対する恐れでしかない」という言葉も印象的だ。





地球を越えて

 ある人たちは宇宙に移住する計画をまじめに立てている。たとえば米国の科学者は、その知恵を次世代へ引き継ぐ時間感覚で研究を続けている。地球の生態系を維持する限界を見据え、予算を出しているアメリカは、この点ではすごいと感じされられる。それにくらべ、僕はなんて視野狭窄なんだろう。僕が昔感じていた自己嫌悪感はまさにこの種のものだ。





不合理

 会社にはいわゆるできない人がいる。一方で、彼らの悪口を言って自分の存在を確認しあう人もいる。僕は少し離れて観ている。それぞれの人がもともと持ってる才能を発揮できる仕事に再配分したら、ものすごい生産性があると思っている。マラソン金メダリストにトップセールスマンになれと強要し、それができないことをさげすむことは愚かだと思う。




やくそく

 人の何を信じるか。僕は、言葉。いまでも、何年も前の約束を守りつづけている。相手はすっかり、様変わりし、たとえ敵対していても、それとは関係なく、その時の約束を守っている。
 なぜなんだろう。自分自身への信頼を失いたくないからだろうか。人の言葉を信じるために、僕は自分の言葉に責任を持とうとしているのだろうか。